地唄 「梅の月」
疑ひの雲なき空や如月の その夕影にをりつる袖も 紅ひ匂ふ梅の花笠 在りとやここに鶯の 鳴く音をり知る羽風に はらりほろりと降るは 涙か花か 花を散らすは嵐の咎よ いや あだしのの鐘の声

「ゆき」「残月」などで著名な峰崎勾当の曲です。
うららかに晴れ渡るきさらぎの宵。その夕影の中にたたずんでいると、あたりを照らすかのように咲き充ちた紅梅が馥郁とかほり、鶯が慕いよってきます。美しい声でさえずるその羽風にさえ、はらりほろりと、花が舞い落ちます。いいえ、それは私の涙なのでしょうか。せっかく咲いた花を散らす嵐の心にくいこと。とはいえ花の移ろひも、世の習い。人の世の無常を告げて、あだしのの鐘の音が響きわたります。

地唄 「鐘ヶ岬」
鐘に怨みは数々ござる 初夜の鐘をつく時は 諸行無常とひびくなり 後夜の鐘をつく時は 是生滅法とひびくなり 晨朝の響きには生滅々為 入相は寂滅為楽とひびけども 聞いて驚く人も無し われは五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん

言はず語らず我が心 乱れし髪の乱るるも つれないは只移り気な どうでも男は悪性な 桜々とうたはれて 言うて袂のわけ二つ 勤めさへただうかうかと どうでも女子は悪性な 吾妻そだちは蓮葉なものじゃえ

恋のわけ里数へ数へりゃ 武士も道具を伏編笠で 張りと意気地の吉原 花の都は歌で和らぐ敷島原に 勤めする身は誰と伏見の墨染 煩悩菩提の撞木町より 浪花四筋に通ひ木辻の禿立ちから 室の早咲きそれがほんの色ぢゃ 一い二う三い四 夜露雪の日下の関路を ともにこの身を馴染みかさねて 中は円山ただまるかれと 思い染めたが縁じゃえ

能や歌舞伎で有名な「道成寺」を地唄にしたのが、「鐘ヶ岬」です。
「道成寺」は、若く美しい僧をみそめた娘が、その恋の執心から蛇となり、とうとう鐘の中に逃げ隠れたその男を焼き殺すという恐ろしい物語りです。

地唄「鐘ヶ岬」では、後日その女が再び鐘の前に現れるところから始まります。

鐘に恨みをこめて、つれない男への思いを舞いますが、後半はその鐘への執心からふっとはずれ、各地の廓づくしとなります。そして廓の世界でゆれうごく女心や恋心をつづっていきます。

女の持つ執念の恐ろしさの中に、その一途な可愛いらしさ、おろかさ、あわれさ、艶やかさ、といった情感が、豊かに盛りこまれています。

「道成寺」の物語を具体的に表現するのではなく、その中身につかず離れず、エッセンスがかほりたつように舞います。

静かな曲の多い地唄の中では華やかな名曲で、多くの方々に親しまれています。

地唄 「からくり的」
面白や 人の行来の景色にて 世はみな花の盛りとも 的のたがはぬ星兜 魁(さきがけ)したる武者一騎 仰々しくも出たばかり そりゃ動かぬわ引けやとて かの念力にあらはれし 例の 鐘巻き道成寺 いのらぬもののふわふわと なんぼうおかしい物語 それは娘気これはまた 曲輪をぬけた頬冠り おやまの跡の色男 立ち止まりてはあぶなもの 見つけられたる泡雪の 浮名も消えて元の水 流れ汲む身にあらねども 変わる勤めの大鳥毛 台傘立て傘 挟みばこ みな一様に振り出す 列を乱さぬ張り肱の 堅いは実にも作り付け さてその次は鬼の手のぬっと出したは見る人の 傘つかむかと思はるる それを笑いの手拍子に 切狂言は下がり蜘蛛 占(うら)良し 日良し道しるべ よい事ばかりえ

「からくり的」の、からくりとはいまではちょっと通じなくなりましたが、「あの仕事にはからくりがある」というと、「仕かけ」があるという意味になります。小さな弓で的に矢を当てると、からくり仕かけによって、さまざまな人形が天井から落ちてくるのです。そんな店はいまでは見られなくなりましたが、昔は盛り場ではそんな遊戯店が繁盛し、遊び客を集めていました。そうした町の風俗や遊びを題材にして、舞の中では天井から落ちてきた人形、つまりからくり人形のフワリフワリした不安定な動きのおもしろさが、その特色の見どころにもなります。

落ちてくる人形のかずかず、それは「道成寺」の清姫から 曲輪をぬけた頬冠り…… の色男、そして大鳥毛を振る奴、また「羅生門」の渡辺綱などが詠みこまれ、それぞれの個性が洒脱な技巧で舞われます。 

地唄の中でも、市井の風俗を描いたものとして、異色のある作品の一つです。

地唄 「狐の嫁入」葛原勾当 作曲/吉村雄輝廣 作舞
世の中に 冠婚葬祭の四つの礼儀あり そが中に 大礼といふものは 婚儀なり 畜生道にありながら 狐は人のまねびをなし まず結納を取り交わし 方角日柄を選びたり (合) 中段下段吟味して 山の召し火や三隣亡ひょうびは格別大禁物 いよいよ日柄を取り極め (合)

そもそもその日の行列は 前箱(さきばこ) 大傘 猩々緋 六尺揃ひの折り鶴紋 前提灯に 後提灯 ぶらりぶらりと長き尾を ひきもちぎらずうち続く 嫁御は 駕籠のうらわかき かづき帽子や白装束 (合)

同じ尻尾の長々と 長道中の半ばより 晴たる日和の村時雨 降るかと思へば照りわたり 照るかと思へば ばらばらばら げにも御狐(おきつ)の嫁入り日和 程なく祠(ほこら)へ着きにけり いわねぞしるき こんこんの あなめでたしと 祝ふらん

狐の嫁入と言うのは、俗に日が照っているのに雨が降る天気雨や、狐火といわれる燐火のもえる事を言うそうです。こういった伝説をイメージに、地唄の「作もの」(滑稽な題材を扱ったもの)に仕立てた葛原勾当の作品です。

人のまねをする狐、うぶな花嫁姿、お嫁に行く娘と母との情愛、立派な嫁入り行列。

全体にコミカルな流れの振りとなっていますが、あくまでも地唄の枠をはみ出さぬようにと、心をくばり作舞をされています。

地唄 「黒髪」
黒髪の むすぼれたる 思ひをば とけてねた夜の 枕こそ ひとり寝る夜の 仇枕 袖はかたしく つまじゃといふて ぐちな女子の心としらず しんとふけたる 鐘のこえ ゆうべのゆめの けささめて ゆかし 懐かし やるせなや 積もるとしらで つもる白雪

地唄の中で、最も愛されている曲の一つです。
恋しい人に捨てられた女の淋しさを舞います。
雪の降る夜、一人で過ごしながら、女は、黒髪をくしけずります。
そして、昔のことを思い出し、去っていった人のおもかげを求めても得られぬわびしさに、そっと涙します。

外には雪が、しんしんと降り積もります。

地唄 「寿」
明け渡る 空の景色もうららかに 遊ぶ糸遊 名残の雪と 謎を霞にこめてや春の 風になびける 青柳姿 緑の眉か 朝寝の髪か 好いた枝ぶり 慕ひて薫る 好かいでこれが梅の花 宿る鶯 気の合うた同志 変わらでともに 祝ふ寿

この曲は作詞鉄重、政島検校・菊永検校両人の作曲といわれています。安永年間の『新大成糸のしらべ』に記されていますから、かなり古いものです。          (日本舞踊全集 第八巻 矢野輝雄)

春は あけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて
紫だちたる雲の 細くたなびきたる

と、清少納言が『枕草子』のはじめに、いとをかしきものと言挙げした青陽の春の朝(あした)は、ほのぼのとうららかに、明け渡ります。柔らかな春色の庭には、ゆらゆらと光りを揺らして、かぎろひの燃えて立ちのぼり、木の下影には春の夢浅く、淡雪と消えゆくばかり、名残の雪。かそけき白雪も人知れずとけてなくなり、おぼろに霞たなびく春景色。若草色に幼く芽をふいたばかりの青柳の糸が、楚々としたたおやめの風情で、うすみどりいろの風にそよとなびきます。草木萌えいづる早春の叙景を『新千載和歌集』では、次のように詠っています。

春風や 柳の髪を梳るらむ 緑の眉も みだるばかりに

春を告げて、ひともとの梅の花が咲いています。風情ある趣の枝々に馥郁とかほり、ふっくらとぽってりと開いたさまは、若い娘の花かんざし。その密を慕って宿る鶯のように、春風にふくらむ胸のときめき。心かようこのひとときの、いついつまでも変わらぬ常盤の松と、祝い言祝ぎます。 

地唄 「茶音頭」
世の中に すぐれて花は 吉野山 紅葉は立田 茶は宇治の 都の辰巳 それよりも 廓(さと)は 都の未申(ひつじさる) すきとは 誰が名に立てし 濃茶の色の深緑 松の位に くらべては 囲いといふも 低けれど 情けは同じ 床飾り 飾らぬ胸の裏表 ふくささばけぬ心から 聞けば思惑 違い棚 逢ふてどうして香箱の 柄杓の竹は 直ぐなれど そちは茶杓の ゆがみ文字 憂さを晴らしの初昔 昔話の爺婆と なるまで 釜の中さめず 宴はくさりの末長く 千代万代え

茶の湯にちなんだ曲で、座敷で舞うのにふさわしい曲です。
ふりには、茶の湯のお点前や作法を取り入れてあります。
歌詞は、お茶道具やお茶銘などをつづりながら、それを掛詞や縁語にして、若い娘の恋心を描いています。

おわりには、恋する人と末長くしあわせにとの祈りをこめて、舞いおさめます。

地唄 「融」(とおる)石川勾当 作曲/市浦検校 箏手付
あの籬が島の松蔭に 明月に舟を浮かめ 月宮殿乃白衣の袖も 三五夜中の新月の色 千重ふるや 雪を廻らす雲の袖 さすや桂の枝々に 光を花と散らすよそほひ 此処にも名に立つ白河の波の あら面白や曲水の盃 受けたり受けたり遊舞の袖 (合)

あら面白の遊楽や そも明月のその中に まだ初月の宵々に 影も姿も少きは 如何なる謂はれなるらん それは西岫に 入日の未だ近ければ その影に隱さるる 喩へば月のある夜は星の淡きが如くなり 青陽の春の始めには 霞む夕べの遠山 黛の色に三日月乃 影を舟にも喩えたり また水中の遊魚は 釣針と疑ふ 雲上の飛鳥は 弓の影とも驚く 一輪も降らず 萬水も昇らず 鳥は月下の波に伏す 聞くともあかじ秋の夜の 鳥も鳴き 鐘も聞こえて 月もはや 影かたむきて明方の 雲となり雨となる この光陰に誘はれて 月の都に 入りたまふよそほひ あら名残惜しの面影や 名残惜しの面影

能「融」をもととした曲です。後ジテの融の出現からを地唄にした、無常の世の月影の幽玄な舞です。

能「融」 六条河原の院にお住まいの源融の大臣は、陸奥の千賀の鹽竈の、風光明媚な眺望をお聞きになり、ご自分の邸にその鹽竈を移し、難波津の浦から日毎に潮を汲ませ、塩を焼かせながら景色を愛で、風流の限りを尽くして一生をすごされました。今は跡を継ぐ者もなく、水も涸れ、荒れ果てています。ある明月の夜、一人の旅僧がおとづれると、汐汲みの老人が現れ、昔の栄華を語りますが、実はそれは融の大臣の霊。やがて昔の優雅な貴公子の姿で現れ、月の光のもとで夜遊の舞を舞います。月下に描きだされる、ゆめ幻のごとく美しい景色。やがて明け方の光陰とともに、姿を消して行くのでした。歳月の流れは早くとも月の光はいつも変わらずに照りわたります。

地唄「融」は、後場、颯爽とした源融大臣の登場したサシ謡の後半から終わりまでの謡曲の詞章をそのまま用いて作曲してあります。前弾きには三味線組歌「揺上(ゆりかん)」の手が用いられています。
融の大臣の月の夜遊を詩的に舞います。融が月の都へと帰って行った後には、またもとの涸れはてた六条河原の院に、夢からさめた旅僧がたたずむのでした。優雅な融の姿も、美しい庭園も、みな無常の世の月影が見せた夢なのでした。

能 融

<資材>
風流を愛する源左大臣、融の朝臣は、賜姓源氏(天皇の子に生まれながら臣下となり、源姓を賜った人)として六条河原の院にお住まいでした。紫式部の『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルのひとりにあげられるほど、風流を愛し政治にも勤勉かつ経済的にも富裕であらせられました。父嵯峨上皇の嵯峨院(今日の大覚寺とその周辺)の西に棲霞観(後に棲霞寺、清涼寺となる)という別荘を構え、平安京内の五条から六条にかけての鴨川の西に広大な河原院を営みました。この邸宅が『源氏物語』の六条院に想定されています。

『源氏物語』が書かれた時代は、京に都が遷されて二百年、平安時代の中期、摂関体制の最盛期のもと女流文化が花開き、貴族文化の爛熟期にあたります。

融の大臣は、陸奥の千賀の鹽竈の、風光明媚な眺望をお聞きになり、ご自分の邸にその鹽竈を移し、難波津の浦から日毎に潮を汲ませ、塩を焼かせながら、あたりの美しい景色を愛で、風流の限りを尽くして一生をすごされました。

このことは『伊勢物語』第八十一段に、
「昔左のおほいまうちぎみいまそかりけり、賀茂川の邊六條わたりに、家いと面白く造りて住み給いけり。神無月のつもごりがたに、菊の花うつろひ盛りなるに、紅葉のちぐさに見ゆる折、みこたちおはしまさせて、夜一夜酒飲み遊びて、夜明けても行く程に、この殿の面白きをほむる歌よむ。そこに立ちけるかたゐの翁、板敷の下にはひありきて、人に皆よませはてゝよめる、鹽竈にいつか来にけん朝なぎに、釣する舟はこゝに寄らなむ」
と見え、また『古今集』には、
「河原の左のおほいまうちぎみの身まかりて後、かの家にまかりてありけるに、鹽竈といふ所の様をつくりけるを見て詠める」
と詞書した紀貫之の歌、
「君まさで烟絶えにし鹽がまの、うらさびしくも見えわたるかな」
を載せ、「顯註密勘」にも、六条院の鹽竈のことが記されています。

<曲趣>
切能物。早舞物。
河原の左大臣の美的生活の思ひ出を主題として、荒れ果てた景観に昔も今も変わりのない月光を配して、その月下に描き出される夢幻のごとき美景の中に、過去の生活の花やかなりし有様を偲び、それを偲び戀ふるにつけても、歳月の流れ去ることのいかにも迅速なるを感ぜしむる、芸術味も風流感も無常観もまことにゆたかな作品です。
場面は二場に分かれます。

……前場……
すでに融の大臣が亡くなって久しい院は、跡を継ぐ方もなく、贅を尽くした美しい庭園も、今は淋しく荒れ果てています。中秋の名月のころ、東国から上った僧が六条河原の院を訪れて休んで居ると、田子を担った老翁がやってまいります。こんな所に汐汲みの居る筈はないがと怪しむと、老翁は、ここは昔、融の大臣が陸奥の千賀の鹽竈をうつした所なので、汐汲みがいるのは当然と答えます。やがて月が出てますますあたりを美しく照らし出すと、老翁と旅僧はたちまち詩中の人となり、畫中の人ともなるのでした。老翁はさらに昔を懐かしみ、融の大臣と六条河原の院の昔話を始めます。月下の風景を愛で、陸奥の千賀の浦曲(うらわ)の眺めを物語り、日ごとに潮を汲んで塩を焼かせて風雅に遊んだ源の融。けれどもその後相続する人もなく、今はすっかり水も涸れ、荒れはてていることを嘆き、「音をのみ鳴くばかりなり」と老翁は涙します。

昔を恋い慕いながらもあふれる詩情にまかせ、老翁は旅僧に、京都盆地を取り囲む四辺の名所や山々をさししめし、教えます。廃墟となった六条河原の院のまわりの景色が、月光の中、ゆめまぼろしのように浮かび上がります。(「名所教え」と呼ばれる小段)

やがてふけゆく秋の夜の月影に、つい興じて長物語のうちに忘れていた汐汲みを思い出し、再び田子を肩に担い、「汲めば月をも袖にもち汐の」と左右の田子を投げ出して汐を汲み入れ、その桶の汐に映る月影をうち見やり、「汀に帰る波の夜の」と行きかかり、田子を背後に捨て、「汐曇りにかき紛れて」、その姿をかき消します。(中入り)

旅僧はなおも奇特を見ようとして夢待ち顔にうとうとと寝入ります。

……後場……
やがて過去の栄光のおもかげそのままに、源の融がありし昔の優雅な姿で現れ、月の光のもと、今や満々と水を湛えた院の庭をうちながめ、昔の夜遊を思ひ出され、袖をひるがえして舞い始めます。さす舞の手は、「秋来れば月の桂の実やはなる」と詠まれた、その桂の木の枝枝に月光を花と散らすかのようです。融の大臣は、貴人の遊舞の舞、早舞を舞います。

舞いあげてもなほ興趣はつきず、心は依然として月から離れることがありません。まずは初月の「宛轉雙蛾遠山色」とも言はれる三日月の形から、一輪の明月とまで成長して行く光輝遍満の不思議な妖力に惹かれて、あるひは水中に遊ぶ魚は釣針かと疑い、雲の上を飛ぶ鳥は弓の影かと驚き、また物のあわいも常に変わらぬ月の光の中で、あるいは鳥たちは池のほとりの樹にやすらい、魚たちは月の光に照らされた波の下にねむるのでした。今、融の大臣も、月光にうかれて昔日の夢に興のつきることもありませんでしたが、すでに月影も西に傾いて、明け方の雲となりましたので、光陰(月夜から暁に変わり移る時間)に誘われて、再び月の都をさして姿を消して行かれるのでした。

それは昔の風流大臣の夢の跡でしたが、よくよく思えば、旅僧の詩的空想の夢にすぎなかったのです。旅僧こそ真実の詩人ではありましょう。

(参考資料)
歌舞伎四百年 三月大歌舞伎(2003年)南座 夜の部 プログラム
『源氏物語』<瀬戸内寂聴 訳・脚本>須磨・明石・京の巻
『源氏物語』の時代朧谷 寿
観世流謡曲本『融』

六条河原院サイトへ

地唄 「萩の露」霞 紅園 作詞/幾山検校 作曲
吉村桂充・吉澤昌江 構成/吉村桂充 作舞
いつしかも まねく尾花に袖ふれそめて われからぬれしつゆの萩 いまさら人はうらみねど くづの葉風のそよとだに おとづれたえてまつむしの ひとり音(ね)になくわびしさを 夜半にきぬたのうちそへて いざさらば空ゆくかりにことゝはん 恋(こひ)しきかたにたまづさを、おくるよすがのありやなしやと

明治時代の初期頃に京都で作曲された地唄の手事物です。本来は、演奏曲として、三味線や箏の技巧を楽しむものですが、舞のための曲として、再構成しました。中唄と手事を省略し、間合いをゆったりと取り、余韻を響かせることにより、歌詞の持つ叙情性を大切にしました。

歌詞には文学作品(和歌)が用いられ、かほり高い調べの中に、秋の風物を綴りながら、男に捨てられた女の恨み、哀しみをそこはかとなく述べています。

舞は、風にそよぐ秋草、こぼれる萩の花、すだく松虫などの秋の風情と、一人過ごす女の哀感がにじみでるように舞います。砧の合いの手の部分では、能「砧」の女、何年も戻らぬ夫を待ちわび、砧を打ちながら淋しく死んでいった女の思いを抱いて舞います。

(吉村桂充)

地唄 「松の寿」在原勾当 作曲/西山徳茂都 箏手付
千歳ふる 松の寿 緑なる 苔は蒸すとも色かへぬ 操すぐなる若竹や 雪の重みはまだ知らず 知らぬ筑紫へ行く梅も 昔生まれは難波津や 冬ごもりして咲くうちに 鶯の来て春をつげ 花の鏡となる水に 亀ぞ浮かびて君が代を 久しかれとぞ 祈り舞う 鶴も群れいて遊ぶなり

千年経てなお いつも青々とした翠の葉をしげらす松 すくすくとのびた竹 春にさきがけて咲く梅 その梅に鶯が来てさえずる 花の姿を写す水面には亀が浮かび とわの命を祝う かたへには鶴も群れ遊んでいる 松竹梅に鶴亀 いつも変わらぬめでたさをうたいあげます。

地唄 「鉄輪」(かなわ)
能の「鉄輪」をもととした曲です。能の「鉄輪」は、裏の平家物語と言われる「屋台本平家物語」劔の巻上に出てくる、「宇治の橋姫」伝説をもととしています。
歌詞の「あしかれと…」から終わりまでが、能「鉄輪」の末段の詞章をそのまま用いています。
孤閨をかこつ女の哀愁と、嫉妬のあまり鬼にならんとするほどの、凄まじい情念とを描いています。

都にすむ女が、夫に捨てられたうらみと嫉妬の一念から、山城の国の貴船神社へ、丑の刻参り(うしのこくまいり)をします。やがて邪鬼となって、怨みに思う男と女の枕辺に迫ります。二人の命を取ろうと責めよりますが、陰陽師安倍晴明の祈りや、まつられた神々に調伏され、近づくことができずに退散して行きます。

地唄舞では、技巧を撓め、抑えた演技で、嫉妬に狂う女の凄惨な姿を浮き彫りにします。
凄まじい情念を写実的でなく、あくまでも美しくえがき、針を綿で包みこむように、やわらかく、抑えて、心の内面が外ににじみ出るように表現します。

参考:京の住人サイトへ

鉄輪……

五徳のこと。火鉢のなかに置く、鉄でできた三本足の輪形の道具。

丑の刻参り……

人を呪い殺すためにするお参り。草木も眠る丑三つ時(うしみつどき…真夜中)、絶対に人目につかぬように神社へ行き、鉄輪を逆さにし三つの足に火を灯して、頭に頂きます。怨みに思う相手の人形(ひとがた)を大木に打ちつけ、それに釘を打ち込み、一釘一釘に呪いをこめて打つたび、相手が弱り、やがて命が絶えると信じられています。

地唄 「名護屋帯」

 二代目嵐三右衛門 作詞/山本喜市 作曲/尾形検校 改曲

逢うて立つ名が 立つ名の内か 逢はで焦れて 立つ名こそ まこと立つ名の内なれや 思ふうちにも隔ての襖 有るにかひなき捨小舟(合)思や世界の男の心 私はしら浪うつつなき 夜の寝覚のその睦言を 思ひ出すほどいとしさのぞっと身も世もあられうものか(合)締めて名護屋の二重の帯が 三重廻る 深山うぐひす鳴く音に細る(合)我は君ゆえ焦れて細る ああ浮世 昔忍ぶの恋ごろも

曲名の名護屋帯というのは、今ご婦人方が普通にお太鼓に結ぶ名古屋帯ではなく、もっと古い時代、元禄から宝暦の頃まで流行した組紐の帯のことです。名護屋帯は文禄元年(一五九二年)に豊臣秀吉が朝鮮征伐のため、現在の佐賀県東松浦郡鎮西町に当たる肥前の国の名護屋を出兵の根拠地に定めて出陣した際に、朝鮮との往来で伝わって来た技術によって作られた組紐の帯のことで、唐組とも名護屋打ちとも呼ばれ、丸打ちと平打ちとがあって、両端に房をつけ幾重にも廻して諸羂(もろわな)に結び下げて使用しておりました。諸羂というのは、蝶結びのことを申します。当時は遊女などもさかんに巻いていたようです。

恋しい人に逢いたくとも逢えない寂しさから身も細り、いままで二重に巻いていた名護屋帯が三重に回るほどにやつれてしまったという恋心を描いています。山の奥深くで鳴く鶯の声を聞くにつけても、ますます恋しさがつのるばかりと唄います。

歌詞の最初の部分には、投げ節の有名な上の句の“逢うて立つ名が立つ名の内か”を用い、後に続く“逢はで立つこそ 立つ名なれ”を“逢はで焦れて 立つ名こそまこと立つ名の内なれや…”としています。

愛し合う男と女が逢い、それゆえに世の噂となる二人の浮名が、浮名の中に入るでしょうか。二人が互いに逢わずにいながら恋い慕い、焦れている中で立つ浮き名こそが、真実の浮名と申すべきではないでしょうか。恋し合う二人のなかに、ぴったりと襖を立てたように隔てられ、思いのままにならない私は、櫂を失った捨小舟。どんなに思っても、世の男の心は私には知ることができず、胸もうつろです。夜ふと目が覚めた時にかわした睦言を思い出せば、骨身にしみていとしさがこみあげ、身も世もあられぬほどの狂おしさです。締めている名護屋帯も、二重廻しにして結んでいましたのに、今では三重にも廻るほどになりました。奥深い山で鳴く鶯の声を聞くたびに、私の体はやせ細っていきます。鶯は美しい初音を出す苦労に、一声鳴くたびに痩せ細るという言い伝えがあるように、私は恋しい人のために恋い焦れて細るばかりです。ああ無常の苦の世界。過ぎ去った思い出を恋い慕い、いつも身につけている衣のように恋の思いはこの身から離れる時とてありません。

地唄 「菊の露」ふくしん 作詞/広橋勾当 作曲
本調子
鳥の声 鐘の音さへ身にしみて 思ひ出すほど涙が先へ 落ちて流るる妹背の川を と渡る船の楫だにたえて 甲斐もなき世と恨みて過ぐる
二上り
思はじな 逢ふは別れといえども愚痴に 庭の小菊のその名に愛でて 昼は眺めて暮しもしょうが 夜々ごとに置く露の 露の命のつれなや憎や 今はこの身に秋の風

頃は秋、空にとぶ鳥の声をきくのも、また寺々の鐘のひびきも一入身にしみて、去っていった人を恋しく思っているのです。落ちる涙は川のように流れ、いとしい人の通う舟の楫も絶えて、何のたよりもない遠い人となってしまったのです。今は生きて甲斐のないこの世を恨むばかりです。昼は庭の小菊をうち眺めて、このさびしさを慰めてはみるものの、夜は夜ごとに花におく露のように、哀れなわが身をひとり嘆いています。

世によく知られる地唄の代表曲の一つで、舞としても、常に上演の絶えないものの中に数えられています。

内容は釈迦の“愛別離苦、会者定離”がよりどころになっていて、逢いに来てくれない男のつれなさを、恨みつつも恋い慕って、庭の菊を眺めながら身をかこち、露の命のはかなさを嘆いて、秋の風と捨てられた悲しい女ごごろを唄ったものです。

総体に沈んだ曲調で、舞もそれにつれてはなやかさは見られませんが、それが、しんとした地唄舞の極地に通じるものがあり、短い曲の中で、悲しい女ごころがキメ細かく舞われてゆきます。その技巧を鑑賞するのが要点ですが、前の唄に続き「思ひ出すほど涙が咲きへ 落ちて流るる妹背の川…… 「思はじな 逢ふは別れといえども愚痴に…… といった風に恨みや涙、愚痴などの悲しみ、やるせなさの連続だけに、その舞が単調になりやすいのです。そのためには舞い手の優れた技量が要求されるわけです。

終わりはまた「露の命のつれなや憎や 今はこの身に秋の風…… という風に心の中を秋風が吹き抜けてゆくような寂しさで結んでいます。

 (「日本舞踊全集」日本舞踊社出版 第二巻 75〜77ページ 地唄「菊の露」より)

昔は、よくこの曲のことをいいます時に、浄瑠璃の「壷阪」(義太夫『壷阪観音霊験記』)を引合いに出したものです。盲目の沢市が、心のわだかまりを隠して三味線を弾く場面(「沢市内の段」)があり、そこに使われているのがこの「菊の露」の一節で、地唄のほうは知らなくても、「壷阪」のことをいうと、皆は「ああそうか」と納得したものでした。ところが近頃は、「壷阪」も「三つ違いの兄さんと…… も、ぜんぜん通用いたしません。
−抜−
「菊の露」という名の酒があります。地唄や義太夫のことからしますと、どうしてこんなのを酒の銘にするのかと、一瞬思いますが、菊の露は、本来はおめでたい意味で不老長寿の薬なのです。

「我宿の 菊の白露今日ごとに 幾代つもりて淵となるらん」は『拾遺集』にある歌。その元は、中国は河南省南陽県の菊水の伝説で、『太平記』や能の「菊慈童」にも出てきます。

九月九日は重陽の節句、

「露ながら 折りて挿さん菊の花 老ひせぬ秋の久しかりける」

これもまた菊の露の歌でした。

 (「地唄うた暦」中井猛著 (有)邦楽ジャーナル発行 9ページ 九月「菊の露」より)

箏曲 「六段の調(しらべ)四世家元 吉村雄輝 作舞
箏曲「六段の調」として、とても良く知られているこの曲に、四世家元 吉村雄輝が舞をつけました。
ういういしい乙女の恋心が描かれています。

うららかな春の一日、乙女がまどろんでいると鶯がやってきて、美しい声でさえずります。乙女は、その鶯に恋しい人への思いを重ねて恋文をしたため、この思いが相手に伝わりますようにと願いをこめます。やがてその鶯は美しい若者の姿となり、乙女はますます胸ときめかせその側に慕いよりますが、ふれようとするとふっとその姿は遠のいてしまいます。どこまでも追いかけていきますが、とうとうその若者は空のかなたへと消えてしまいました。そして後には乙女が前と同じようにまどろんでいました。

春の恋の夢を「六段の調べ」に乗せて舞います。 

箏曲 「みだれ八橋検校 作曲
古曲に少ない純器楽曲の一つで、段物形式ではありますが、「六段の調」「八段の調」のように各段何拍子と定められたものではなく、より自由な形式で作曲されています。
普通何段というのは、教授上の便宜のため区切られたもので、生田流は十段、山田流は十二段としています。
箏独奏曲 「祭りの太鼓昭和二十二年 宮城道雄 作曲
「伊勢神宮の神楽殿からの御所望があったので、『五十鈴川』と『祭りの太鼓』の二曲をあらたに作曲して奉納することになったのが、昭和二十三年四月十八日で、天気の良い日であった。」と作曲者の随筆に記されている。

宮城道雄が初めて伊勢神宮に参拝したのは、昭和九年三月、その次が奉納演奏の時であるから、この曲は、十四年前の最初の伊勢参宮の印象をもとに作曲したものということになる。祭太鼓の軽快な気分を表し、また岩戸開きなどの意味も含ませたとのことである。

曲は九つの部分よりなり、A-B-A-C-D-C'-A-B-A'というシンメトリカルな構成である。これはロンド形式などのような洋楽の舞曲形式を参考にしたものであろう。
左右の手で細かく交互に弾弦して、曲の大半を太鼓らしいリズムできざみ、太鼓の響きの遠近、高低、緩急などを効果的に描写している。

胡弓 「鶴の巣籠(ごもり)
鶴のつがいは春になると、雪を割って流れる小川などで餌をさがしながら、繁殖期を迎えます。ダンスを踊り、お互いの絆を確かめ合います。
やがて巣作りをし、雛がかえり成長すると、子供の鶴は走りながら飛ぶ練習をします。
やがて親は子供を追い払い自立させます。そして親が去った後、子供の鶴は独り立ちの準備をし、やがて繁殖地へ飛び立ってゆきます。
そのような鶴の様子を描いた曲です。
胡弓の秘曲として、尊重されている演目です。(吉澤昌江)

 
藤植流鼓弓本曲奥組秘曲 「鶴の巣籠」

みよ明らかに治まれる 君が千代をと舞ひうたう ひな鶴の声面白き春の空 (手事巣籠四段) みどりいろ添う松風の みどりいろ添う松風の 調べのどけき庭の面(おも)

胡弓の代表曲といわれている鶴の巣籠は、同じ名前の曲が尺八にもあり、どちらがどちらの影響を受けてできたのかは謎ですが、いずれの曲も江戸時代中期には成立していたようです。胡弓では藤植流のほかに名古屋と大阪で伝承されている曲もあり、どの流派でも最高の格式を持った「秘曲」として伝承されています。藤植流鼓弓には同音に調弦された二本の三の糸で半音違いや一音違いの音を出す「ゴロ」という奏法があり、鶴の巣籠にはそれらのほかにもさまざまな奏法が用いられており、難曲といえましょう。

現在の前唄ならびに後唄の歌詞は、明治45年1月に家元山室千代子(明治8〜昭和26)が改訂なさいました。旧歌詞は前歌が

みよこのまことに治まれる 君が千歳を舞遊ぶ(以下、同じ)

となっています。作詞者名とその年代についてはまったくわかりません。藤植流ができたのが宝暦ころですからそれ以降でしょう。

松に巣をかけて子育てをする鶴の夫婦の情愛や、雛の鳴き声などを描写しているといわれております。
その情景を感じとっていただければさいわいです。(杉浦 聡)

藤植流鼓弓 「夏の夜」
夏の夜は誰が里ならぬ月夜よし、夜々ひと笛の音に知らすらむ

藤植流の中組(教習する際の、表組・中組・奥組というランクのうち)の曲のひとつです。
前歌のあと手事が奏されます。後歌はありません。
笛の音吹き澄ます夏の夜の月影を鼓弓の調べにのせて
うたいあげます。
(杉浦 聡)

尺八古伝 「真虚霊」(しんのきょれい)
「古伝三曲」(こでんさんきょく)といわれ 尺八曲の根元として
重要視されてきた三つの曲の中の一つです。
しかもその中でも 一番古い型を残している曲といわれています

「虚霊」は「虚鈴」の意味で 普化禅師の「虚鐸」(きょたく)のことだそうです。禅の「空」の概念を表した曲です。
あまり極端な音楽的表現は避け 精神的な面を尊重します

最も芸と人生との年輪が必要な曲の一つです

普化禅師・・・禅宗の一派である普化宗の僧
虚鐸・・・・・鈴のような仏具